甘粛省敦煌(トンコウ)DUNHUANG
莫高窟 Mogao Caves
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殺風景な砂漠を20分ほど車で南下すると、眼にポプラの木の緑が飛び込んできます。その辺から右方向の崖を望みますと、乾いた茶色の岩肌に、多数の「穴」が見えます。それらは、むき出しの状態で、目指す敦煌莫高窟(千仏洞)「北区」の石窟郡なのです。莫高窟には仏教美術の宝庫である「南区」と、そこで修行をした僧侶たちの僧房「北区」があります。北区に関しては現在、敦煌研究院により研究が続けられており、今は立ち入り禁止区域ですが、ゆくゆく一般公開になるとのことでした。
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車窓から見た敦煌莫高窟「北区」とその後ろに鳴沙山。 |
唐の時代にさかのぼる石碑に、「西暦366年に樂ソン(にんべんの旧字の「尊」)【ラクソン】という修行僧がこのそばへ来たときに、突然黄金の光が見え、まるで千仏がいるようであった。そこで、この地に一龕(ガン=岩壁に彫り込んだ室)を造営した。」と記してあります。
それから1000年の元の時代まで、石窟は造営し続けられ、その間の民族、文化、思想を伝える宝庫となりました。しかし、時代の流れで東西交易は陸路から海路へ変わり、敦煌を含むシルクロードの重要度が下がり、忘れ去られてしまいました。
その後900年、中国道教の道士 王 圓ロク(竹冠の「録」)【オウ エンロク】が後に「蔵経洞」と知られるようになった石窟を、1900年6月22日に偶然発見しました。発見された「敦煌文書(もんじょ)」の中には、4世紀の386年の経典から11世紀の1002年の文書までが含まれており、そのためこの隠された石窟が1002年に封印されたことと推測されている。道士の王にとっては、これらの古文書は大した価値もなかったので、この発見の話を聞きつけた世界の探検隊が1900〜1912年の間にこの地へ押しかけ、王氏より大量の文書を入手し、それらはイギリス、フランス、ロシア、日本などの国へ離散してしまった。
出土した数は5万点といわれ、そのうち4万点は国外へ、1万点のみ中国国内に残っているといわれます。95%が経典であり、西暦868年印刷の金剛経も出土しています。残りの5%は、封印される直前の権利書、契約書など庶民生活で大切であった文書でした。
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この川(写真では水無し)が幾度も氾濫してきた。
「川面に前室の屋根が映る」と古い文に残っています。
奥に見えるのが北区の石窟。 |
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敦煌莫高窟 入場門 |
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この写真で千仏洞が3層あるのが見えます。
世紀の大発見、第16・17窟はこの右方向50メートルほど
行ったところに位置します |
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ミニ知識:
莫高窟の各石窟は番号で知られています。実際には3通りの番号があります。
1)発見当初、この地で発掘をしたペローが1907年に付けた窟番号。
2)1943年に石窟の内部を模写に来た画家による番号。
3)1944年2月に設立された 敦煌研究院の前身である「敦煌芸術研究所」が付け、現在でも使われている窟番号
現在の番号の付け方ですが、この上の写真で見られるように、南区は概ね3層造りなので、地階右端から順に左方向に割り当て、地階左端から今度は2階左から右端まで進み、最後に3階右端から左へと決められております。
それは、右下から「Z」の字を描くようにです。
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心ない盗難・破損防止の対策として、大きい荷物並びにカメラ類は入り口で預けさせられます。
そのため、莫高窟敷地内では個人撮影はできませんでした。 |
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