山本住職のシルクロード体験記
第3章 (第4部)
敦煌(トンコウ)市街地散策
(現地2005年6月6日)

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甘粛省敦煌(トンコウ)DUNHUANG
玉門関周辺

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  砂漠を「灘」と呼んだのは大いに意味があります。水の海に船で航行したように、古来ラクダや馬、ロバでこの険しい荒野を渡っていったのです。
  今では舗装した道路が整備されていますが、ものの数年前までは、先達者の残したワダチをたよりに、道なき道をひたすら進みこの地に至ったことを考えると、気が変になりそうです。蜃気楼が普通に見えます!このまま行けば水にたどり着くと「確信」できます。
  その様な心理状態で、進んでいった人々のためにも、関所は必要であったと思います。出入りする者には、心身ともに一息付ける場所であったことでしょう。

  さて、武帝が設置した2つ目の関所、玉門関は「小方盤城」とも知られ、漢代の長城の近くで桜欄からの一本道上につくられています。勿論、軍事的にも重要な拠点です。

  二つの関所、どちらを通ったとしても、そこから先は「西域」となります。陽関が敦煌市内から70km西南にあったのに対して、この玉門関は西北約100kmに位置します。

  防衛のため、この辺りには漢代の長城の跡が多く見られます。玉門関より西へ5kmほど行ったところに、2000年も経った今でも石、砂と芦で造られた長城を近くで見学できます。高さは150センチ位しかない理由は、「敵」が騎馬族であったため、馬が飛び越えられなければ良いだけの高さがあれば防衛上問題がなかったからとのこと。烽火台が点々と見受けられます。

  なお、烽火台(のろしだい)から烽火台への伝達ですが、ここでのろしをあげると約1800キロ離れた長安の都(現在の西安)まで一日で敵の襲撃などの異常を伝えることが出来たと説明されました。

  玉門関からさらに20km西に行きますと、河倉城(かそうじょう)遺跡が現れます。建造時代には、近くに川が流れていたことがこの名前の由来です。建物の役割は、長城を守る兵士たちの食料などを貯蔵した場所だそうです。


玉門関から10km西の河倉城
かなり大きな建造物なのがわかります。
長城を守る兵士たちの食料などを貯蔵した場所とのことですが、
周囲は人が住める状態ではなかったその昔、大勢の兵士のために
よくぞこれだけ大きな建物を建てたと感心します。
3枚パノラマ。右に見えます平らの土盛は、昔の物見台の土台部分だと思います。
2000年の歳月で、崩れてしまったのですね。
ちなみに、この河倉城本体は、西暦2000年に修復補強作業で手が加えられております。

こちらは向かって左側になりますが、烽火台であったような気がします。




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