山本住職のシルクロード体験記
第2章 (第4部)
新疆ウイグル自治区 吐魯番(トルファン)」(9)
(現地 2005年6月5日)
高昌故城 Gaochang City その1
「シルクロード」天山北路の烏魯木斉(ウルムチ)から天山の東南側へ 抜けると新疆ウイグル自治区、吐魯番(トルファン) Turpan |
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歴史: 紀元前1世紀にこの地で砦が築かれた言い伝えがありますが、現在では西暦327年に高昌郡が設立されたのを高昌城の始まりとされております。西暦499年、麹嘉Qu Jiaが国王となり、それまで幾度と繰り返された戦乱地が安定した。この安定期を「麹氏高昌」として知られ、640年に唐朝の軍隊が入り、西州都督府を設立するまで続きました。その後、9世紀に回鶻人が移住してきて「高昌ウイグル汗王国」を設立し、400年間ほど主な政治、経済、文化の中心となりました。 その後、1275年に蒙古の来襲があり、敗れ、40年後に高昌王が再度統治しるようになりますが、かつての繁栄は戻ることはありませんでした。そして、1383年にChagataiの子孫がトルファンに戦を仕掛け、それから後にはトルファンへ政治、経済、文化の中心が移りました。 概要: 高昌故城は、総面積220万平方mの城壁に囲まれた町です。遺跡は内城、外城、と宮城(宮殿施設)の3部構成になっております。内城は全長3.6kmの高昌壁により囲まれています。外城は全長5km以上の外城壁に囲まれております。 トルファン市から東へ40キロ、火焔山の前の平野地にあります。この地の標高はマイナス40mであり、古来「火洲」という名前の由来はこの地の暑さにあります。 文書、石碑、像、彫刻、図画や磁器が多く出土しており、仏教に関係している物は多数あります。 なお、地域的に深い関係がありますので、歴代高昌住民の墳墓が北へ車で10分(4キロ)ほどのところにあります。阿斯塔那(アスターナ)古墳として知られ、西暦200年〜800年までの600年間、地域の公共墓地として使われました。人々の歴史、文化、思想などを知る上で、大変重要な発見がなされています。1959年以降、既に400もの墳墓が発掘・研究され、貴重な織物、絹絵、文書、壁画などが見つかっています。仏教以外の諸宗教も共存していたことが見受けられます。古墳内部では撮影禁止です。特に、対のガラスケースにご夫婦のミイラがある墓所は、ごく近くで観察できます。壁画や装飾の細部にわたり学習されたい方は、比較的強力な懐中電灯を持参することをお勧めいたします。 仏教的意義: 仏教経典の翻訳者として有名な玄奘三蔵が経典を求めて天竺(インド)へ向かう道中ここを通った際、高昌王、Qu Wen Tai麹文泰に、手厚く受け入れられました。玄奘は請われて約1ヶ月の滞在中、王に仏法の話しをいたし、その縁で高昌王より黄金や銀、衣類、荷馬数十頭など20年分の旅費を寄進されました。天竺から戻った際には、この地で説法をすることを王と約束し長い旅に出ました。 10年後、帰国した玄奘は、世話になった高昌王との約束をはたすため再度この地へ足を運びましたが、高昌国は唐によってすでに滅ぼされておりました。 炎天下、歩けないこともない距離ですが、入り口でロバ車(有料)がたくさん控えているので、効率よく利用された方が無難でしょう。ゆっくり見て回るのは半日でも終わらないでしょうが、中心の宮城跡までロバ車で往復し、途中で景色を写しながらしますと1時間で戻れます。 |
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